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自分以外遍く自分以下

なぜなら主観があるのはぼくだけなので

ここ数年ぼく以外には主観がないと思って生きてるけど、そんな話を他人にましてや友人にしても仕方がないのでブログに残しておきたい
どうせこんな考え方は拗らせ中二病が完治するまで、社会を知るまでなので
ブログは人格のバックアップ。バックアップは取るだけ得だと思う

ぼくは哲学とか倫理専攻じゃないからネットの聞きかじりからの寄せ集めだけど、人の意識は脳の神経細胞を流れる電気で形成されているらしい
個人的には量子脳理論なんかが面白いと思ってるけど、魂とか死後の世界はないほうが個人的には助かるなと思っている

結局線が各部分に繋がっていてそこを電気が走ることで動いていると簡略化すれば人も機械も同じことで、じゃあ唯一ぼくと他者や機械を分けているものはというと主観がぼくにあることだ
もちろんこれを読んでる人は主観が自分にあると主張するかもしれないけれど、それはこちらからは確かめようがないし証明もできないので問題ではない
また「自分以下」と言ってるのも他人を尊重していないとか見下してるとかいうベクトルの話ではない
むしろ今のぼくが自分自身を肯定するために必要な思い込みだと思っている

ぼくにしか主観がないことをどのレベルで考えてるかというと、宇宙は(というかこの空間は)ぼくが生まれたときに出現したしぼくが死ぬと同時に消えるものだと思ってる
それとは別に宇宙は量子的なゆらぎから生じたというのも信じている
矛盾してるように感じるけどたぶん自分の中では理屈が通ってるので問題はない
これがさっき死後の世界がないほうが助かるといった理由で、死後の世界があると主観が終わるタイミングが想像できないし後悔も残るだろう

以前死んだ後の話を友人としたが話がおそらく噛み合っていなかった
今思うと主観がぼくにしかないという前提を理解されていなかったのだと思う
例えばぼくが事故や病気で死ぬとする
その時点でぼくの主観は消失するし、理想の世界ならその後意識はどこにいくわけでもなく消失する
結果としてぼくは何も認識できなくなるので、ぼくが死んで喜ぶ人がいようと悲しむ人がいようと関係がない
これを簡単に表現すると宇宙がなくなるということになる

じゃあなぜ生きてるの?と聞かれそうだと自分でも思う
それに対しては現時点では「死後の世界があったときに困るから」になる

次に主観とは何かというと大部分が"記憶"だと思う
したがって世界が死後に転生するシステムだったとしても、記憶が引き継がれなければぼくの中では死後の世界はないのと同じで、引き継がれれば最悪である
この考えでいるときに一番気持ち悪いのが「デジャヴ」だ
デジャヴは何度も経験したことがあるので再現性があり、思い込みや勘違いの領域では収まらないものだと感じている
現時点で一番納得がいっているのはデジャヴだと感じた「過去の記憶」が現在作られたものだとする考えだ
「過去に見た」という記憶は「現在の感覚」であり、過去に見たというのは間違いだろう
これでは過去の自分が感じた感覚を否定することになるが、そもそもそんな感覚は存在せず、過去に感じた感覚自体が現在作られたと考えている。難しい

じゃあ主観が自分にしかないことの何が利点かというと、「まあ自分には主観があるから」と余裕が持てる
他人が努力しても得ることができないものを持っているというのは自我の安定に繋がる
さしずめぼくの人生はぼく以外NPCでやってるゲームのようなものであり、負けても大きく失うものはなく勝って大きく得るものもない
代わりに自分を肯定できるのも自分だけなので頑張るしかないし、個人的に努力を推し量れるのは結果だけだと考えてるので楽でシビアな人生かもしれない

この考え方に移行してからはかなり自分を信じれるようになった
昔は自己肯定感とか自尊心が低かったけど最近はかなり高いし、まず自分のために動けるようになった
他人に奉仕する生き方は息苦しい
それで自己肯定感を得る人も多いけど自分には向いていなかったと思う
どうせ一回しかない人生なので、死後も意識が続く可能性がわずかでもある以上、上手に生きれる方法や思考を探したいと思っている

結局この文章で何が言いたかったかというと、人生は自分のものだから頑張ろうとしてるよという意思表示であり、未来の自分への励ましだ
現実を知るとそのうち死にたくなるよきがくるかもしれないけれど、それは宇宙が終わることに繋がるか死んだ後に後悔するかだぜ、と

今回の文章、一人称が「自分」だと分かりにくかったから「ぼく」にしてみたけど違和感が最後まで拭えなかった