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努力と才能の話

僕は今まで自分は人より努力ができる方だと思っていた
昔はどちらかというと努力できないが才能があると思って生きていて、周りの人間が思っていた以上に頑張っていないことを知ると「じゃあ比較的努力家だな」という考え方に代わっていった
しかしながら、自分と比べ物にならないような努力をして、自分程度の結果も出せない人もそれなりにいた
この努力と結果が比例していないことに僕は長い間悩んでおり、出来ることなら努力した人間が正当に報われる世界観であってほしいと考えていた

 

ところで努力とは何か、ということも多く考えた
昔は辛くて大変なことが頑張るということだと思っていた(雛菜)
小学生のころ、対抗心を燃やさせようという試みか、クラスで勉強時間を記録して後ろの黒板に張り出すという催しがあった
当時の僕は授業外の勉強をしなくても頭が良かったので、かなり短い方だったと思う
その中に50時間という張り出す紙の中に収まらない勉強をした、努力家のKくんがいた
Kくんはクラス内カーストもそこそこ高く、虚栄心から虚偽の申告をした可能性もあったが、僕の視点からは誠実なように見えた
その後試験があり、結果としてKくんは決して低くはないものの僕より低い点数であった

 

この出来事は僕にかなりの影響を与えた
当時の僕は別にKくんに対抗心もなかったし、純粋な応援に近い気持ちだったと思う
僕の中ではたくさん勉強した人が試験で高い点数を取れるという因果関係が成立していたため、それが崩れたことは受け入れがたかった
とくに彼の勉強時間は群を抜いていたのだ
加えて決して悪い成績でなかったことも謎の説得力を生み出していた
この一件で僕は努力した人ほど良い結果を出せるわけでないことを知ったし、自分が努力しなくても結果が出せる恵まれた側の人間であることをなんとなく理解した

 

後に学年が上がるにつれて、自分の中の最低ラインであった課題すらやらない人が多いことを知り、自分が努力している方であることを知った
努力できる人間が好きになったのも同時期だと思う
高校生の頃は他人に勉強を教えることが多かった
自分を頼ってくれるのは有難かったし、勉強を聞きにくる人は総じて一人でも努力をしている人たちだったので良い環境だなと思った
中学から高校では間に受験が挟まるので自分の好きなタイプの人間が増えるなと感じた
このあたりから最近まで、自分は努力できる方の人間だなと考えていた

 

今、最新の自分への理解は「努力を結果に還元するのが得意」だ
これは友人が自分を大体こんな感じに評してくれた
努力をしていないわけではなく、努力を高い効率で結果へと繋げることができる
実際、勉強面で言えば自分は一番適した勉強方法がおおよそ決まっている
例えば、「図書館や教室よりも自宅で行う」、「過去問を重視して傾向をつかむ」などだ
このあたりは結果に繋げやすい部分かなと思っている
努力の多さに注目するのではなく、努力から結果への変換過程に注目するというのは自分にはなかった
結果は努力と才能の足し算で出来上がると考えていたため、どこかに比例関係があるという固定観念があったのだろう
この視点はとても面白かったし、同時に残酷だなと感じた
なぜなら努力から結果への還元効率が悪い人間にはそもそも努力の価値が低いのだ

 

しかし、努力から結果への変換効率というのは、つまるところ「才能」を指しているのかもしれない
才能オンリーで物事を成し遂げている人間はいないだろう
例えば絵における「センス」は才能と同義だと思うが、このセンスはそれまでに得た経験や試行が元になっていると考える
余談だが、センスを言い訳にするのが僕は嫌いだ
先述の理屈でいくと、センスは後天的に獲得できる
したがって、それを言い訳にする人間は何も始められないだろう
才能も同じで、それまでの経験や試行により得られるものであり、得たものを応用して努力から結果を生み出す
ただ、才能という言葉を使ったとき、そこに努力がないような気がしてくる
「努力する才能」という胡散臭い言葉があるように、努力と才能は本来内包関係にないというのが前提になっている
しかし僕は現状、才能は努力によって形成されるものであり、なおかつ努力は才能によって高効率で結果へと還元されると主張したい
こうまとめると努力と才能は相互に高め合っており、チートだ

 

世の中の上位にいる人間が努力しているかなんて分からない
そもそも上位とは何か、何をもって上とするかを決定するのは難しい
それでも自分は上の人間になりたいと考えているし、努力した人間は報われてほしいと考えている

自分が努力できない人間になったときは、また違う理屈をこねくり回したい