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【感想】「国道沿いに、憶光年」、「天檻」【読めるのは今日(6/10)まで】

浅倉透のpSSR、『国道沿いに、憶光年』と、ノクチルのイベント、『天檻』のガシャ期間、イベント期間がどちらも今日22/6/10に終わるので簡単な感想です。

結論だけいうと、ノクチルを追っているような人には最重要コミュだと思います。通勤通学中にもしこれを見かけて読んだ場合、とりあえず引いた方がいいです。

 

過去のノクチル感想

haruyalog.hatenablog.com

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『国道沿いに、憶光年』、『天檻』、これら2つのコミュは明らかに意図的に同時期に公開されました。共通する点として、これまでのノクチル、浅倉透の話に一区切りを付けたことです。浅倉透はその初登場からシャニPの幼馴染ポジションということで話題になりました。一方で、その後はあまり過去の出来事に触れられることはなく、ノクチルのユニットとしての側面や、アイドル浅倉透としての葛藤が押し出されていました。

【国道沿いに、憶光年】はシャニPとの過去の話が出た「WING」の正統続編にあたります。共通コミュでやれ。

 

打って変わって『天檻』はノクチルのユニットと浅倉透の関係の話となります。個人的な順番としては、「国道沿い」の後に読むことを想定されているように感じました。

『天塵』で個性の強いデビューをしたノクチルでしたが、『海に出るつもりじゃなかったし』、『さざなみはいつも凡庸な音がする』では等身大のアイドルである4人が描かれました。正直、天塵と雛菜に強く惹かれていた僕にとっては、あまり面白くありませんでした。さて、今回の『天檻』は、その名前が示すように『天塵』に近い構成になっています。むしろ、これまでの(限定カードを含む)ノクチルのコミュに対するアンサーのような内容です。特に、【UNTITLED】や天塵で描かれた、樋口円香から見た浅倉透という構図に結論が出るのでおすすめです。

 

以下、もっとネタバレ

 

国道沿いに、憶光年

浅倉透のお話には大まかに2軸あり、一つが浅倉透とシャニPの関係、もう一つが浅倉透と食物連鎖、アイドルの話です。国道沿いでは前者を完結させるようなコミュが展開されました。

浅倉透はシャニPから見て常に未知の存在として扱われてきました。浅倉透のコミュでは普段のシャニPと比較して彼の葛藤する描写が非常に多く、意思疎通が上手くいっていない様子が描かれました。
浅倉透の原風景にはジャングルジムに”一緒に”登ったシャニPの姿がありました。しかし、再会したシャニPはアイドルの浅倉達を守る存在であり、一緒に雨に濡れてくれる存在ではなく傘を持って浅倉を追いかける存在でした。

 

今回のコミュではこれらのすれ違いが解消したように思えます。むしろ「解消した」というのはポジティブな表現で、もっと消極的にお互いが「許容した」ような関係でした。

 

僕はこのコミュを、「浅倉がシャニPを諦める話」のように感じました。浅倉はシャニPと一緒にジャングルジムにのぼりたいと考えており、それに対してシャニPは「スーツが破れてものぼる」と答えました。しかしそれは過去、ジャングルジムを一緒に登ったのとは異なり、裸足の浅倉を追いかけるような形です。僕はこれを浅倉が半分諦めたように感じました。

 

では、浅倉と”一緒に”登るのは誰か、というのが『天檻』の話だと思います。僕が憶光年を先に読むことを推奨したのはこれが理由です。

 

天檻

天檻、たぶん転換にもかかっていると思います。「檻」というモチーフは『憶光年』において「舗装された道」として示されたものと同じだと思います。この話は初期では樋口の「アイドルの人生に責任を持てるか」という表現で出ました。『天檻』ではアイドルとしての人生に対して、シャニPからやはり消極的に答えが出されたと思います。

 

さて、上述した「浅倉と一緒に登ってくれる存在」について、浅倉が選んだのはノクチルの4人でした。浅倉が自分ではなく樋口を舞台に上げる場面はこのコミュで一番好きな描写です。このシーンは【ピトス・エルピス】への返しでもあると考えます。以前までは自分の歌を不完全なものとして捉えていた樋口でしたが、浅倉が樋口の歌を50年もののワイン足ると判断したこと、樋口がそれに応えたことがピトス・エルピスへの答えだと思います。今回は代表して樋口がメインに描かれましたが、雛菜や小糸に対する浅倉の想いもいつか描写されてほしいです。

 

雛菜から浅倉への想いについては、今回はじめて明確に言語化されました。それは「透先輩は行っちゃうよ。だから好き~」というものでした。雛菜の思想からも予想できたことですが、雛菜にとって何者にも捉われない浅倉は魅力的だと思います。雛菜は他者が自分を理解した気になったり、気持ちを制御しようとしたりするのを嫌うため、自由の極致のように見える浅倉に惹かれているのでしょう。一方で、浅倉は雛菜と違い、好んで他者の影響を受けないわけではないと思います。浅倉は反骨精神で自由にしているのではなく、委員長に頼まれ、シャニPに「出てくれ」と言われて応えることで「生きている」という実感を得ています。たぶん、浅倉のかかえている「生きること」に対する悩みや、食物連鎖の一部になりたいという望みは雛菜からは見えないのではないでしょうか。ここに、雛菜と浅倉で解像度の違いがあるように感じているため、いつか掘り下げられたらいいです。

 

統括

もっと短く書くつもりでした。原稿用紙1枚分、400文字くらいで感想が書ければ冗長にならないと考えていました。

 

【国道沿いに、憶光年】、『天檻』、どちらもこれまでの浅倉透に決着を付けたコミュだと思います。コミュを読んでいて分からない部分は、これまでのコミュのどこかから理解できるようになったと言えるでしょう。僕はこの2つのコミュを読んで強い喪失感にかられ、それからずっと虚無です。漫画の最終巻やアニメの最終回を見た気持ちでした。

 

ノクチルでは市川雛菜が一番好きなのですが、雛菜に関してはこれまでの成長がもっとも小さいと感じています。既にゴールにいたとも取れますが、これだけ達観した高校生は健全ではないでしょう。

 

これらのコミュで、「ノクチル」という関係性をもって、幼馴染4人の繋がり、としたのはすごいことだと思います。裏を返せば、4人はノクチルがなければいつか離れていたことを暗示しています。シャニマス全体曲として出された『虹の行方』では、各ユニットに一部のパートが分かれています。ノクチルのパートでは

 

違う旅を選んだ私も きっとそうだね どこかで 何かに励んでる

 

という歌詞になっています。これは明らかにノクチルでない可能性を表しています。天塵での樋口の問いかけから、アイドルとしての人生の話はシャニマスというアイドルゲームでやるのは難しいと感じていました。それに対して肯定的な答えを返した今回のコミュは綺麗だったと思います。